おまかせ定食(その男翻訳者につき)
最近体験したことを小説風に綴ってみました。100%事実ではなく、多少の創作も加えています。
男は駅前の定食屋に入った。夜は居酒屋、昼は定食屋として営業している店のようである。カウンター席に座る。「いらっしゃいませ」と言いながら、50代半ばくらいの元気のいい女性が水とおしぼりを持って来た。
男の職業は翻訳者。読者の中には、翻訳者よりも翻訳家という呼称のほうがしっくり来るという人もいるかもしれない。文芸作品の翻訳を手がける著名な先生であれば、翻訳家と呼ばれることもあるが、文芸翻訳は翻訳業界全体から見れば特殊な分野であり、翻訳に携わるほとんどの人間は文芸翻訳以外の分野、つまり産業翻訳や実務翻訳などと呼ばれる分野に携わっている。企業活動に関わる翻訳を取り扱う分野である。この分野の翻訳に携わる人たちは一般に翻訳家ではなく翻訳者と呼ばれている。
まあ、そんなことはどうでもいい。男はカウンターに置かれたメニューに目をやる。煮魚定食や唐揚げ定食など、ありふれたメニューの中に「おまかせ定食」という文字列を発見する。おまかせ定食。どんな定食なんだろう。常連客らしき客数人が来店して、「お母さん、今日のおまかせは何」と聞く。先ほど男に水とおしぼりを持って来た女性が「今日はヒレカツですう」と、語尾の「す」を長く伸ばしながら答えた。常連客たちは皆「そしたら、おまかせちょうだい」とおまかせ定食を注文している。
男も、常連客に倣っておまかせ定食を注文した。お母さんと呼ばれていた女性は、カウンターの中にいる料理人に元気よく「おまかせひとつう」と伝える。男はさっきからずっともやもやしている。おまかせ定食とは、何が出てくるかはわからないけど、店を信頼して今日はどんなものが食べられるのか楽しみに待つ定食ではないのか。この店の常連客たちは皆、今日のおまかせ定食が何なのかを確認してから注文している。何が来るのかわかった時点でそれはもう「おまかせ」ではない。店が提供しようとしているもの、それはおまかせ定食ではなくて、日替わり定食なのではないのか。
男はお母さんに「そういう趣旨なら、おまかせ定食ではなく、日替わり定食という名前に変えたほうがいいですよ」と言いたくてウズうずしていたが、初めて来た店でいきなりそんなことを言うほど図々しい人間ではなかった。
男はこういう状況によく遭遇する。街角で妙な看板を目にしたり、変な言い回しや間違ったことばを耳にしたりするとひとこと言いたくなるのである。ことばにはついつい敏感になってしまうのである。
「おまたせしました」と言いながらお母さんが男の席にヒレカツ定食を運んで来る。からっと揚がったヒレカツは衣がサクサクで美味だった。美味しいヒレカツを食べながら、男はまだおまかせ定食という名称のことが気になっていた。その男翻訳者につき、普通の人ならおそらくどうでもいいと思うであろうことが、気になって気になって仕方がないのである。
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comments
はじめまして。調理師を夫に持つ翻訳者です。
それは「おまかせ定食」でよいのだと思います。
きっとヒレカツがなくなったら別のものに変わるのです。
今日残ったら、明日もヒレカツなのです。